富士山と三保松原の世界文化遺産登録実現に尽力

長年の懸案であった富士山の世界文化遺産登録が実現した。しかも三保松原(みほのまつばら)まで構成資産に含まれて登録された。2013年6月22日ソクアン議長が「アダプディット」といって木槌をたたくと、プノンペンの首相府の会場に歓声があがった。なぜか涙がこみあげてきた。感動の一瞬だった。

 本当にここまでくるには、紆余曲折があった。ICOMOSの勧告で三保松原が除外された。その理由は富士山を信仰するピルグリム・ルートから45キロメートルも離れているということだった。しかし、日本人にとって三保松原と富士山は一体である。天女は富士山の化身であり、富士山と三保松原は命の水の循環でつながっている。富士山と三保松原は命の水の循環でつながっているからこそ、稲作漁撈民はその風景に美を発見し、芸術の源泉になったのである。命の水で人と人が繋がる社会それが稲作漁撈社会なのである(拙著『稲作漁撈文明』雄山閣)。三保松原がピルグリム・ルートから45キロメートルも離れているという理由で構成資産からはずされるのは、私としては納得のいかないことだった。世界遺産の第37回の会議はカンボジアのプノンペンで開かれることになった。その議長はソクアン副首相であるという。私は2006年依頼カンボジアの学術調査に携わり、ソクアン副首相にも大変お世話になった。カンボジアの人々もまた日本人と同じように山を崇拝する世界観を持っていた。驚くべきことだがシロアリの巣が山のシンボルにまでなっていた。アンコールワットはその東北にある聖なるプノン・バケン山と聖なる水でつながっていた。王は毎年聖なるプノン・バケン山に巡礼した。

 そこで私は「富士山と三保松原の関係はプノン・バケン山とアンコールワットの関係と同じだから、三保松原を世界遺産に登録するように」とソクアン副首相にお願いの手紙を2回書いた。そのことを書いた拙書『Water Civilization』Springer)をあわせてお送りした。「この本の428頁をみてほしい、これは東洋と西洋の世界観の闘争でもある」とまで書いた。私達のカンボジアのプロジェクトのカウンターパートであったチュップン文化副大臣は、その手紙と本をただちにソクアン副首相に届けてくださった。

 しかし、それでも心配だったので、私は半田晴久氏にソクアン副首相に直接話していただくようにお願いした。半田氏はプノンペンに英語の大学を造られ、毎年多額の支援をされ、カンボジアの名誉領事にまでなられている方である。半田氏は近藤誠一文化庁長官にもこのことを伝えてくださった。

 しかし、1500人以上の各国の関係者であふれた会場は、とても三保松原の重要性を日本側が主張できるような雰囲気ではなかった。遠山敦子元文部科学大臣は「どこかの対しが三保松原の重要性を指摘してくれるといいのだが」と心配されていた。チュップン副大臣も「ICOMOSの勧告はきわめて重い、それを覆すのは容易ではない」とまでおっしゃった。

 しかし、6月21日の夜のパーティーが終わった直後、近藤長官のお顔が輝いていた。「ひょっとするとうまくいくかもしれない」という直観が私には走った。そして翌日の会議で、ドイツやマレーシアの対しが積極的に三保松原を取り入れることを進言し、インドの大使は精神性が重要だとまで言及した。川勝平太静岡県知事の感謝の言葉は見事だった。聞けば最後の夜にソクアン副首相と近藤長官の折衝で決まったとのことである。もちろん私たちの努力がどこまで功を奏したかはわからないが、みんなの重いがきっと結集したからだと私は思いたい。

『電気新聞』2013年(平成25年)7月4日(木曜日)より 安田喜憲筆

安田喜憲 プロフィール

やすだ・よしのり=東北大学大学院教授、国際日本文化研究センター名誉教授。スウェーデン王立科学アカデミー会員。専門は環境考古学。三重県出身、66歳。(当時)

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